庄左ェ門 [八代目] – 八代目 庄左ェ門 そして窯の始まり

「庄左エ門さん」昔は信楽で代々、庄屋さんだったのです。

しかし…、いつから続いているのだろう…。八代も…。庄左エ門…。それで、なぜ陶器業?

ホントにややこしい、長い話ですが、僕の祖父は七代目 庄左ェ門さんの末弟なのです。
更にややこしいのは、実は庄左エ門の名。孫、孫(奇数)にしか付けられないのです…。

代々の庄屋家系。

当時の松鉢

七代目の庄左ェ門さんの親の代(僕からでいうと祖父の父親)に多数の知人の保証人になりその保証人の不渡りが続いて借金の肩代わりをし続け、どうしようもなくなり七代目の(故)庄左ェ門さんは信楽を離れて大阪で暮らしたそうです。
(大阪では事業を成功させ、財を残されたと聞いております。)

その後、信楽に残っていた祖父は職人として陶器業に入り祖父(仮50歳の時)、父(21歳)を伴い陶器事業を始めました。
当時は松の鉢を主に製造しており「松鉢を焼いている庄左ェ門一家」の意味を込めて命名。

当時の松鉢は今も現役、葉牡丹や菜の花が植えてあります。

その後、父が引き継ぎ、会社として松庄を設立。
製品も松鉢の落ち込みで食器を主に製造する事に。(当時、信楽で食器は珍しかったみたいですよ。)

信楽で食器は珍しかった

祖父が作った一輪差し

祖父が作った一輪差し。今は冷蔵庫の上の神棚用。

徳利、ぐい呑はお正月に「御屠蘇」として使っています。
昔は絵付けの製品も製造しておりました。(私も薄ら覚えがあります。)

その後、新工場を建てる際に庄左ェ門の名を屋号として使わせて頂き、譲り受けさせて頂きたい為に大阪に居られる故七代目庄左ェ門の娘さん(親父からは叔母さんにあたる方)に相談しに行き、墓守をしている我が奥田家に「名」を譲って頂ける事となりました。

現在は、その息子、私が八代目として名に恥じないよう陶器業を頑張っているわけです。

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